oozy Blog

「小次郎つばめ返し」

Nステ「チャンスの前髪3」

(ナレーション)『オーディションを経て自分にしか出来ないものがあるはずだと気付いた。』
ドラマ『ぼくらはみんな生きている』のVTR
撮影待ちのオダギリ氏は衣装の白い靴が気になるようで
「きれいすぎる。汚しちゃって平気ですか?」とスタッフに尋ねてますが、
この時の表情がムチャクチャカワイイです!!(なんのお知らせだ!)


表現者として伝えたい>ライブハウスにて
「例えばね、役者としてアカデミー賞取りましたと。ウワーッ!って感じになるんですかね?」
渡辺アナは知ってか知らずかオダギリ氏のデンジャラスゾーンに何気に抵触してきます。
「あんま嬉しくないと思うんですよ。それは審査員の方々の勝手な価値観であって・・・。」
ほら『審査員の方々』と言いながら『勝手な』とか言ってます。
一応・・・あの・・・丁寧語ということで・・・。
「誰かがちゃんと見てさえくれてれば、それはそれで成立しているハズなんです。」
「それはでも・・・・じゃ、誰なんでしょうね?」
渡辺アナ!あなたひょっとしてスゴイインタビュアーでは!?
アナは紙に頼らずオダギリ氏の言葉を受けて次の言葉を引き出そうとしています。鋭い感性の持ち主通しの対決。
この質問にオダギリ氏の口から出たのは意外な、いや、ものすごく正直な言葉でした。
「実は母親なんですよ。」
「母親に届けたいんですか?」
うん・・・・・と答えるオダギリ氏はそれまでの強い光を発する目から、照れたように柔らかい目に。
本人も誘導されて今気付いた様子。
「母親だけが僕の存在を喜んでくれたりとか、何か思ってくれればそれで僕は結構満足してるんですよ。」
オダギリジョーが女性に宛てた最大のラブレター。
この揺るぎない母子の絆があるからこそ、オダギリ氏は全てを失うことを恐れず前に進めるんでしょうか。
聞きようによっては究極のマザコン発言ですが、オダギリ氏がお母さんの事を話す時、
なんだか切羽詰まった感じがして、よく分からないけど切なくなるんですよ。


(ナレーション)『俳優にならなかったらただの引きこもりであった言う。
         人は分かり合えないからこそ他人の表現に興味がもてると。』
ドラマ『ぼくらはみんな生きている』のVTR
撮影最終日。オダギリ氏、オールアップの様子。
意見を闘わせた(交換した)監督からも花束を贈呈されガッチリ握手。
(ナレーション)『どこまでも同じ場所を彼は走りたくないらしい。』


再びライブハウスにて
「役者なんてねえ、星の数ほどなりたい人間がいて、その中で才能のある奴はいるワケですよね。
 表現している人間として他に表現している人間には負けたくないですね。」
オダギリ氏の言葉は多分自分に向けたものなんでしょう。
あれから2年、映画界の賞を総なめにしながら、
相変わらず「自分はスターじゃない!」と目をぎらつかせて全身で拒否するオダギリ氏がいます。
私は変わらないでいて欲しいと思う気持ちと、何かを越えて変わったオダギリ氏を見たいと思う相反した気持ちがグルグルする
実に勝手なファンなのでありますが、
オダギリジョーという役者がどう先に進むのか?
どんな変化があるのかそれとも無いのか?
どう進むにしろそれをリアルタイムで見ることができるのは、やはり大変幸せなことだなと思うのであります。
おわり。