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「小次郎つばめ返し」

大河ドラマ 八重の桜 第40回 『妻のはったり』

釜山映画祭での茶目っ気ある不敵なオダギリ氏の笑みを眺めつつ、
http://news.naver.com/main/read.nhn?mode=LSD&mid=sec&oid=001&aid=0006517837&sid1=001&lfrom=twitter
http://news.maxmovie.com/movie_info/sha_news_view.asp?newsType=&page=&contain=&keyword=&mi_id=MI0099701016
ああこれはオダギリ氏だな、やっぱり襄先生とは違うなと感じ、
そんなに思い入れの強い役柄ではないと思っていたのに、
もうすぐあんな顔やこんな顔の襄先生が見られなくなる、
新しい襄先生に一生会えなくなるのか思うと
猛烈に寂しくなってきたのでございます。
同じ入れ物なのに宿る魂で全く違う人になってしまう。
でも時々その人物たちがふとした瞬間に現れるから、
余計に切なくなるのがオダギリジョーという役者なのであります。


襄先生は学校を存続させるために外国人教師たちのアイデアを受け入れますが、
一番大事な事は生徒たちが学べる場所を守る事で、
そのために形が多少変わることはあまり問題ではないようです。
衝撃を柔らかく吸収して中の核を守ることにおいて、襄先生は揺るぎない芯を持っていますが、
柔軟すぎる対応は時に優柔不断に映ります。

ゆう‐じゅう〔イウジウ〕【優柔】
[名・形動]
1 ぐずぐずとして決断力がにぶいこと。気が弱く、はきはきしないこと。また、そのさま。「―な性格」
2 ゆったりとして、ものやわらかなこと。また、そのさま。

教師たちや生徒たちが、ワタクシがモヤモヤと襄先生に抱いていたイメージを
本人に直接ぶつけていてスッキリしました。(これ)
そのことが「自責の杖事件」に繋がるのですが、京都編のダイジェストを見た時から、
穏やかな、お日さまのような襄先生が、「襄先生のまま」あの表情に変わっていくのを
どうやって繋げるていくのだろう、人物のアウトラインが崩れないか?と案じ、ドキドキしておりました。
(と思っていたら他のクラスタさんもそうだったらしく笑いました)
しかし何の矛盾もなく、八重の桜の新島襄でした。
オダギリ氏の中にどんな場面でも崩れる事のない「新島襄」が存在しているようです。


今回一番賛否を呼んだのは八重のついた嘘ですが、
キリストの教え的にはアウトだそうです。
什の掟でもアウト、一般的にもアウト、教育に関わる者としてはもっとアウトでしょう。
しかしワタクシの中では小さな声でセーフと言っているのであります…。
イカンのよ、そりゃ嘘をつくのはイカンけれども、どちらかというと愛情に対して受け身な八重が、
襄先生のためにムキになって思わず嘘をついた、
正直言うとそれがちょーーーっと嬉しかった姑根性でございますよっ!!ええ!(ムキになるな)
「自分の信念を断固として貫く男」
八重のついた嘘を嘘のままにせず、襄先生が身をもって真実に変えたと言うことで、
どうか水に流してくださらんか。(え?だめ?)


府議会では隠居然としていた山本覚馬がまたもや時代の要請により前面に押し出されてきました。
あの頃の選挙の様子や新しいシステムへの混乱、駆け引き、活気、
やはり時代が軋みながらも動く様を見るのは面白いですねえ。
明治時代は大転換期、大混乱期でありながら、あまり詳しく取り上げられなかったので、
ワクワクしながら非常に興味深く見ております。
いつの時代も「昔は良かった、この国は変わった、だらしのないヤツばかりだ」と言われるのが習わし。
あの時代もきっとそうだと思います。
今の世も、知らず知らず時代を動かしている人ははたくさんいるのでしょう。
自分の隣にもきっと「山本覚馬」や「新島襄」がいる。
分かるのはまた100年後のことであります。