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「小次郎つばめ返し」

大河ドラマ 八重の桜 第48回 『グッバイ、また会わん』

ローマは一日にして成らず、セキスイハイムでも一日では建たず。
しかしオダギリ氏はたった2話で新島襄の人生を補完してしまいました。


あの2話で急にキリストが降臨したワケではなく、
困り顔の、引け腰の、間の抜けた声で「八重さ〜ん」と呼ぶスイーツ大好き襄先生と、
47話48話の襄先生は地続きであります。
まったくタイプが違うようで違和感のない人物像。
ドラマの表面上には出てこなかったけれど(´・ω・`)
シーン毎その場限りの人物造形ではなく、オダギリ氏は新島襄でいる間、
絶望と苦悩から這い上がる使命感、
情熱と希望を失わず歩みを進める精神的強さを持った「新島襄」を生きて、
彼の人生を着々と積み上げてきたと思われます。
柔らかな笑顔の奥に、こんな悲しみと強さがあったのかと想像させる説得力。
オダギリ氏が八重の桜で生きてきた新島襄を表舞台でちゃんと見たかったなあと思うのであります。
「グッバイ、また会いましょう」
しかし、今後オダギリジョーとは会えても新島襄には会えないというセツナサを、
オダギリファンはみな承知でございます・・・・・。


色を失う襄の目、魂を引き留めようとする八重のシーンは圧巻でした。
演技者が自分の身体を離れ、代わりに役が浮かび上がってくる瞬間を見られるのは、
長編ドラマの醍醐味であります。
孝明天皇と容保公、獄に繋がれている覚馬、八重と尚之助との別れなど
このドラマはその瞬間が多かったような気がします。
そこだけ切り取れば空気感まで思い出せる印象深く濃いシーンばかり。
それなのに後口はなぜ薄味でぼやけるのか。
公式の「クライマックスへ 〜亡き人々の思いを胸に〜」
http://www9.nhk.or.jp/yaenosakura/special/mov/#mov21
なんだか11ヶ月のドラマより、数分の動画の方が描きたかったことが鮮明になっているような。
一体どこで間違えたのか?
あんつぁまのように思い巡らすのであります。
あと2話。ひょっとしたらドラマ全体も奇跡の補完が出来るかもしれな…(ry
見届けたいと思います。


本放送のあと、「立つんだジョー」と「なっしーふなっしー」が溢れるTLを遡ると、
「クマがヤラレタ!」というツイを見つけ、
   ∩___∩
   | ノ      ヽ
  /  ●   ● | クマ──!!
  |    ( _●_)  ミ
 彡、   |∪|  、`\
/ __  ヽノ /´>  )
(___)   / (_/
 |       /
 |  /\ \
 | /    )  )
 ∪    (  \
       \_)
↑が、ワタクシの頭の中を通り過ぎたんですが、このクマとは大隈重信の事で思わず吹きました。
文句を言いつつ、教科書に載っているような人物を愛情を持ってあだ名で呼んだり、
歴史に詳しい方々のつぶやきを拾ったり、体現された人物像を見ることによって、
自分とは遠い架空のような偉人たちが本当に生きていたんだなと感じることができます。
1年間、役者さんと視聴者の間で少しずつ積み上げられていく大河ドラマが好きなので、
おそらく来年も、再来年も役が浮かび上がる「その瞬間」に会うために見続ける事になろうと思います。



ところで調べていると、キリスト(ヘブライ語でメシア)は名前ではなく「救い主」という称号らしいですね。
メシアは「油注がれた人」という意味で、自分たちを解放する救い主を意味すると言うことなので、
時々TL上に流れてくる新島襄名言「諸君の議論に、愛の油を加えよ」に
なんとなくネギ油のチャーハンをイメージして「なぜにして油なん?」状態だったワタクシは、
ここでやっと襄先生の言葉の由来をうっすらと感じとる事が出来たのでございます。